2009/09/12

鴻池朋子展 インタートラベラー 神話と遊ぶ人

●旅の日誌●

インタートラベラー。このタイトルは言葉としていまいち掴めていなかったのですが、展示を見終わった後、『あぁ、そういうことか!』とものすごく納得しました。鑑賞者はトラベラーとなり、地球に例えられた鴻池さんの作品世界、自身の身体感覚、そして心理の内部を旅します。
以下そんな旅の記録です。

顔のドアを通って旅の支度。標識に従って、さあ出発。


まず出迎えてくれるのは、開いた襖《隠れマウンテン—襖絵》。開けた口の中へ進んでいくような、そんな感覚が芽生えました。

まだまだ始めは表面的な感じが残りつつ、ゆっくりと下り坂をくだって内部へと向かっていく途中。絵本の中のみみおに自身を重ねながら。

みみおに誘われるような気分で小さな入り口をくぐると、そこは甘美な香りが充満した赤い世界。さっきよりも中へすすみ、子宮内にいるような感覚になりました。ここから、これから、第4章から第1章そして中心部の第0章へと遡る、誕生の瞬間、本質が始まる、そんな気分になりました。甘い香りはカサブランカ。白い百合の花はマリアを彷彿とさせますが、胎内に宿すという感覚は共通するものかもしれません。

さらに奥へすすむと、骸骨の襖《シラ—谷の者 野の者》が待ち構えています。そう、まさに、構えているという言葉がぴったり。今度の襖はぴったりと閉まっています。この閉まっている先は、よく目を凝らさないと見えてこないものらしい。襖とじっと対峙していると、骸骨の目の奥がカッと光を放ち、襖がバンッと音を立てて開きそうな気配がしてきます。しかし、閉じて展示してあるものを開けることもできないので、脇から奥へ回ります。小さなオオカミと少女のトラベラーが核心部へとすすんでいく私を見送ってくれているよう。

本質のお話《焚書—World of Wonder》が静かに語られます。
そしていよいよ旅はクライマックス。

上り坂はなぜ高揚感を生むのでしょうか。自身のシルエットが《クロマニヨンのしっぽ》に重なり、鴻池ワールドはいつしか私の世界になっています。想像、空想、妄想が大得意なまま大人になって本当によかった、そう思いました。完全に私は旅の物語の主人公となりました。

《赤ん坊》ノインスタレーションを前に「うわーっ」と思わず声をあげ、クラクラ。支えがないと立っているのが辛いほど、三半規管がマヒ。地核へ行くのに、物質的な身体はいらないということですね。中心部というところは解き放たれた精神だけが辿り着ける場所なのかもしれません。誕生の瞬間であるのに、死後、最後の審判や三途の川など、そんなイメージも持ちました。死ぬって現世からはいなくなるけれど、死後の世界に生まれるってことですから。
床がきしむ音でさえ、作品の一部であるようです。ここまで旅してきた人々が皆すがすがしい満足した顔をしているのが印象的でした。

核の裏側には、とても世俗的な世界がありました。抜け殻の狼、浸された白髪。核へ行くのに置いていった魂のイレモノが捨てられているよう。
本質のお話によれば、皮膚によって外界と内界の境界を作り出したという。境界を取り払うことで深く深く潜っていくことができるということでしょうか。地球の地核を通り越して、裏側へと突き抜けていけるくらいの想像力を持っている自信があるので、「地上へ」の矢印の先は、私の場合、南米だったかもしれません。
皮を脱ぎさって彷徨うように旅をしていたので、地上へ帰ってきたときはとてもホッとしました。

いつの間にか、自分の外の世界と自分の内の世界が入り交じり、ひとつの世界になっていました。あまりに素直に展覧会を楽しんで、鴻池さんの思うつぼにドップリとはまりました。


●みみお考●

最後の最後まで顔を描けず、結局顔なしとなったという、みみお。絵本の中で、自在に相対的なサイズを変えていることに気付きました。周りの世界に合わせて、望む目線のサイズになっているようでした。要は物事の中心をどこに置いて見るのかってこと、そう思いました。
顔のないみみおはとても表情豊かです。そんなみみおの表情を読み取れないのは、想像力の欠乏だろうなと思いました。モノトーンのみみおは、自分次第で何色にだってなれるのだもの。みみおと一緒に旅をしたいと思いました。得意の妄想力で、行ってこようと思います。


----------
鴻池朋子展 インタートラベラー 神話と遊ぶ人
@東京オペラシティギャラリー
2009年9月27日(日)まで
----------
このあと、鹿児島の霧島アートの森へ巡回します。あー、鹿児島にも行きたい。屋外の森での展示もあるんだって!

0 件のコメント: