2008/09/15

液晶絵画

映像作品

が、どちらかと言えば苦手です。

映像を流しっぱなしの展示室に入ったときに、状況がわからない。
途中から見始めても、なにがどうなって今の映像につながっているのか、
想像するしかできない。
作品時間の長いものだと、あとどれだけ待ったら最初からみれるのかもわからない。


そんなモヤモヤした気分になってしまうので、
よほど第一印象の良い作品しかみれません。
そんな私。

さて、写真美術館の液晶絵画展。
こんな私にはぴったりの映像作品。
会場のあいさつにもありましたが、あえて「絵画」展のタイトルがつけられています。
あくまでも「映像」ではなく、「動く絵画」といった作品たち。
画家的な視点で制作された作品たち、と言ったところでしょうか。
映像という手法に注目した展覧会です。

一番わかりやすいのは、千住博の《水の森》。
羽田空港の《朝の湖畔》が元々の絵画で、
この湖畔の水面が揺らめいていたり、森の木々がそよいでいたり、蝶が飛んできたり、
という処理が施されているものが今回の作品。

私はまだ羽田空港の作品をみたことがないのですが、
以前滝の絵をみて、水が流れているのを一時停止しているように感じたので、
もう一度ボタンを押して再生に戻したら・・・という感覚だろうと。

ジュリアン・オピーも同じように、絵画では一つの表情しか見せずにじっとしている人が、
ニコッとしたり眉をひそめたり、表情を変えます。

静止画である絵画では表現しきれない部分を補うために動画である映像という手法を使った。
という印象を受ける作品でした。
もし、映像という手法がないのなら、パラパラ漫画でなんとかいけるかも。というか。(すごい勝手なこと言ってますが。)
だから、映像をみているというよりは、動く絵画をみているという感覚。

サム・テイラー=ウッドは、対象を絵の具と筆で描く代わりに、カメラと時間を使って描いている感覚。
時間が描き出す変化が絵の最重要要素です。

作家は何を使って表現するのかを選択するところから制作が始まっているのだなぁと感じました。
そして、画家とか彫刻家とかいう呼び名は、
彼らがどういう視点で表現するのかで決まるものだと改めて思いました。
とすれば、最近よく耳にする「アーティスト」という曖昧(と私は思う)な呼び名も、納得。
いろんな視点と方法でいろんな表現をする人はひとつの呼び名では呼べないのかもしれない。
(個人的にはなんでもかんでもするよりも、画家の視点で映像にしたり、彫刻家の視点で描いたりしている方が好きだけど。スタンスの話かもしれません。)

ヤン・フードンは6つの映像でひとつの作品ですが、
それぞれの映像を一時停止した状態で展示してあっても変わらないような気がしました。
6つの映像全てを一巡するまでみなくても、断片的な映像でも十分伝わる(であろう)作品です。
こういう映像作品は私も大丈夫。
やはりこれもストーリーのある映像作品ではなくて、カメラと時間を使って描いたものだと思います。

ほか、イロイロはしょりますが、今回の展示で、ちょっと異質に感じたのがチウ・アンションの作品。
なんとなくストーリーがあります。うっすらとしか感じられないくらいですが。
簡単に言えば、いろいろ描いて場面を繋げて動かしてアニメーションにしました。
という感覚で間違ってはいないと思うけれど、私が今回テーマとして感じていた画家的な視点が薄いような気がしました。

森村泰昌のフェルメール。真珠の耳飾りの少女の方は、光の使い方やポーズに、なるほど!
引きから少女(役の森村氏に)寄っていくカメラワークに引き込まれてしまいました。
これは静止画でコマ割りするよりも、スムーズにズームインしたほうが効果的。
少女がこちらを振り向くタイミングで、心の中で呼びかけていました。
フェルメールという画家は、すごいです。
いつまでたってもいろんなところでインスピレーションを与え、生き続けていく。
定番なんだけどいつまでも新鮮なネタでいるような気がします。


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液晶絵画 STILL/MOTION
@写真美術館
〜10/13マデ
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時間に余裕をもって、ぜひ。

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