2008/01/17

モナ・リザが誰であろうと

レオナルド・ダ・ヴィンチの《モナ・リザ》のモデルが、ジョコンダ婦人であるという証拠が見つかったとか。


そんなニュースがテレビで流れるほど、日本人は《モナ・リザ》がお好きなようで。


テレビで美術関係のニュースが流れると嬉しいけれど、多くの日本人の美術への関心は偏っているのがとても残念。


『ダ・ヴィンチ・コード』の大ヒットで、人々は絵画に込められた謎解きに夢中になっていたけれど、最近はその余熱が静かに何冊かの本を出版している、といったところのようだ。

「絵画の真実」とか「絵画に込められた謎」とか、そんな言葉は聞き飽きた。

ここが入り口となって美術がもっと社会に溶け込んでいけばいいけれど、そんな効果は見えてこないし。


美術史やアートリビュートは正しくかじっておけばとても役立つし楽しいけれど、研究者でない限りはそこにはまりすぎてもなあ・・・と思うのだ。最初は探偵気分で楽しいだろうけれど、ある程度の数の絵を見てしまえば後は同じことの繰り返しになってしまうような。

私たちにはもっと別の楽しみ方があるし、直感で感覚的に作品を楽しむことはとても重要な体験となる。コンテンポラリーアートなんて、言葉で説明したり定義付けることが無意味だったりもするのだし。


ダ・ヴィンチは、自分の残したあらゆる形跡を、後世の世界中の人間たちが必死に追いかけ回していることを、きっと笑いながら興味津々に眺めているに違いない。


《モナ・リザ》のモデルが、ジョコンダ婦人であろうと、ダ・ヴィンチの愛人であろうと、彼自身であろうと、私にとってはそんなことはどうでも良くて、それよりも、絵を前にしたときに、ぼんやりとした背景とこじんまりとした画面に愛おしさに近いものを感じたことの方が重要なのだ。磁石に吸い付けられるように人々がこの絵に群れている姿が、リアルな《モナ・リザ》。


ちっとも美人じゃないのに、眉毛もないのに、なんで人々はこの絵に惹かれるのか。後世の作家たちがオマージュしたように、私たちだって、美術界の論議にどうこうするのではなく、自分の身体で《モナ・リザ》を食べて消化して排泄することの方が、よっぽど意味がある。