2012/02/24

「しっている」と「はじめて」の大きな差

「しっている」ことが必ずしもいいことばかりでは、ない。
そう思うことがあります。

例えば、今ICCで展示をしている、DJぷりぷり=金太郎。
彼は自らが金太郎の格好をして街に出て、twitterに投稿される目撃情報を集めることで金太郎の存在を示す《金太郎》という作品を展開しています。モニタに次々に表示されるそのつぶやきを見ていると、「リアル金太郎に遭遇!」とか「なに?この人!?」とか「金太郎みたいな人が電車に乗ってるけど!?」といった、金太郎に遭遇した人々が素直に驚いている様子が伝わってきます。街で金太郎を目撃した彼らは、なんだかわからないけど見たままをつぶやくことで、作品にすんなり入り込んでいます(本人には全くその意識はないのだけど)。

しかし、その金太郎の格好をした人が何者かを知っていて、何をしているのかを理解してしまっていると、この新鮮な驚きを得ることができません。金太郎に限らず、そういうアーティストがいることを知っていると、街でなんだか怪しげな人を見かけても、アーティストか?パフォーマンスか?と思ってしまうと、「何?なに?ナニ?」というワクワク感もなくなってしまいます。

それって、ちょっと損した気分。
おもしろそうなこと、たのしそうなこと。この、◯◯そうな、がなくなって、冷静でフラットな感情になってしまうと、つまらない。

いろんな作品をたくさんみてきました。新しい作品に会うたびにそれなりの新鮮さを感じることはできますが、すでに知っているような感じを受けることも多々あります。

「はじめて」であることのキラキラした感じを、どれだけ持ち続けていられるのか。
ここが愉しむためのポイントであるような気がするのです。熟れ過ぎちゃったらいかんなぁと思うのです。