2013/02/17

高嶺格のクールジャパン

—まったくもって客観的になれない展覧会だったので、感じたままありのままに垂れ流して書いてみようと思います。(普段から客観的には書いていませんが。)


1「クールジャパンの部屋」

展覧会場の入り口を入るとすぐ目の前に立ちはだかる壁。その目の前の壁一面に描かれた「飽食の時代」。

これはきっと展覧会のプロローグなんだなと思いながら、この先には何があるのか、ここから何が始まるのだろうか、と考えながら、中央の扉を押し開いて先に進む。

次の部屋に入って振り返ってみると、先ほどの壁は薄いベニヤ板で、まるでコントで大袈裟に倒れる背景セットのようだった。そう思った瞬間、「あ、高嶺さんの用意した落とし穴に落とされた。」と感じた。


2「敗訴の部屋」

両側の壁から迫り出してくる原発関連訴訟の新聞の見出しの数々。見出しだけで記事の詳細はわからないけれど、原告住民の敗訴、棄却の文字が並ぶ。正面には毛布に包まり携帯を握りしめる若者の塑像。キッと強い視線。

眼から入ってくる情報と壁から感じる圧迫感に、足取りが一歩一歩重くなっていく。伏し目がちに座っている看視員さんもこの空気感に押しつぶされないように必死になっている展示の一部のようにみえる。
ちょうど新しい安全基準の骨子案の話を聞いた後だったものだから、ますます気持ちが悪くなってくる。
当たり前と思うことが当たり前とされないこと、正しいと思えないことが正しいとされてしまうこと、結局今になってほら。って言っても取り返しはつかない。

心の中で、グツグツグツグツと何やら正体のわからない何かが煮えてくる。

黒いモシャモシャを掻き分けて次の部屋へ進む。
本当にこの先に部屋があるの?と思うくらいに長く感じるモシャモシャの通路。
このモシャモシャ、うっとうしいったらありゃしない!顔にびろーんと貼り付く...


3「標語の部屋」

薄暗い部屋の中に回転する電光掲示板の札が天上から吊るされ、そこに次から次へと標語が流れている。
「笑顔」とか「みんな」とか「明るく」とか「やさしく」とか、そんな内容。

多分、日本人の誰もが知らずのうちに口ずさめるようになっている、五・七・五のリズム。
呪文のようなリズムに感じる嘘くささ。当たり障りのない言葉たちはただのきれいごとにしか聞こえないし、そうであると思っているので(おそらく大抵の大人はそうだと思う。)、嫌な気持ちになる。
札と同じように回転する鏡に時折映る自分の姿に、なぜかさらに嫌な気持ちになる。
そんな標語の中に佇む塑像は気が狂うだろうなぁ。

また黒いモシャモシャにイラッ。


4「ガマンの部屋」

視界は一変、真っ白な部屋。3体の塑像。天井からはさまざまな「我慢しなさい」の声。

言われているシチュエーションを考えてみるけれど、「我慢しなさい」と言われた記憶が私にはない。我慢せざるを得ないときには暗黙の了解で我慢してきたような気もするけど、それを我慢と感じていなかった面もある。むしろ自分には我慢が足りないのではないかと思うこともしばしばある。

ホワイトアウトした空間で頭の上から降り注ぐ声。きっとこれは逆らうことのできない人からの声。
「我慢しなさい」。改めて言われてみて、嫌だなと思った。
しかし、今の私は何を我慢しなければいけないのだろうか。我慢すべきことは何で、我慢してはいけないことは何か。

もう黒いモシャモシャのことは気にならなくなってくる。
でも顔にびろーんってなるのはやめてほしい...


5「自由な発言の部屋」

破かれた紙に書かれたさまざまな意見や思い。その中に佇む塑像。

SNSで見かけるような、綺麗で聞こえの良い言葉や排他的で制圧的な言葉への嫌悪感。
匿名性の中の自由に覚える違和感。

私がこの塑像だったら、もっと紙をびりびりに破ってやるわと思いながら、むずむずしてくるのを抑える。
カッコイイことやもっともらしいこと、前向きなこと、理論的なこと、達観しているような言いぶり、率直な疑問、なんでもいいのだけどここは言葉のゴミ箱のようだった。


6「ジャパン・シンドロームの部屋」

関西、山口、そして水戸で制作された、福島の原発事故を受けてのフィールドワークを再現した寸劇。
簡易なセットの中で果物屋や魚屋やスーパーなどで商品の安全についてのやりとりが繰り広げられる。

ここの映像は、みる人が置かれている状況によってずいぶん印象が変わるだろうと思う。

私はいつかはこどもを産みたいと思う。
31歳・彼氏なしの現状、それがいつになるのかは全くわからないし、そういうことになるかどうかもわからない。
タイムリミットが先にくることも十分にあり得る。
だけどそのときになったときに、自分の健康状態を心配するのは嫌だなと思う。
だからほんとうは食べ物に気をつけていなければいけないと思うのだけど、気にしていたら生活が成り立たなくなってしまう。仕事をしながら、納得いくまで調べて、安全と信じられるものを手に入れて、と考えると気が遠くなるのが正直なところ。
スーパーで東日本産と西日本産の野菜があれば後者を選ぶ行為の中に、複雑な気持ちが残る。
そもそもこどもを生まないかもしれなくて、それなら自分だけならそんなに気を遣うこともない、とも思う。

ということを、考えては考えるのをやめて、でもまたふと考えてやっぱり考えるのを放棄して、という繰り返しをしている私にとってはかなりこたえる映像だった。結局はループから抜け出せないままでいるけれど。


7「核・家族の部屋」

核実験の歴史で黒く埋め尽くされた壁と、高嶺さんの家族の写真。

世界ではこんなにも核実験が行われているのかと驚くと同時に、高嶺家の様子にうちにもこんな写真があるなぁと心が和む。あぁそういうことか、と現実を突きつけられて、考えてもどこに出口があるのかわからない道を進む。
うっかり床の塑像にぶつかるんじゃないかと思うほど、頭を他のことに使えない感覚。


8「トランジットの部屋」

これまでになく長い長いモシャモシャの道のり。掻き分けても掻き分けてもまだモシャモシャ。
やっと抜け出したと思ったら、これまでずっと聞こえてきていた叫び声と歌声の正体は、変な部屋。

グルグルまわるスポットライトに照らし出される各部屋の塑像が脱ぎ捨てたという衣服。
こどもの歌声。おとなの叫ぶ声。
太鼓のリズム。映し出されるよく見えない映像。

太鼓のリズムは、金曜日の官邸前抗議の「再稼働反対!」のシュプレヒコールのリズム。
私はあのリズムに、覆い被さってくるような飲み込まれるような怖さを感じる。自分の意志はあるのだけど、あの中でいつの間にか自分がなくなりそうになる感覚があった。だから2回目に行けない、というか行かないでいる。

そのちょっとした恐怖の感覚がこの展覧会にも当てはまるような気がした。
流されていはいけない。自分で考えていかなければいけない。どこへ行くのかモヤモヤしないといけない。
塑像たちは蒸発して消えたようにも思えるし、どこかへ向かって歩き出したようにも思えるし、気味が悪い。

その気味の悪さ、後味の変な感じは、全8室からなる「高嶺格のクールジャパン」という作品の本体のようでもある。

これは高嶺さんが提示した現実で、その中に私自身の現実が多く含まれている。
「3.11後」という前置きはいらない気がした。あの日の前も後もずっと続いている。
ぼんやりしていたことがはっきりみえてきただけ。それをこの演劇のような展覧会でなぞられた。

この展覧会は、どれだれ現実感をもってみるかによって(極端に言えば当事者かどうかによって)、軽い文化祭の展示のようにみえるかもしれないし、どかんと打たれるものがあるかもしれない。
東京から水戸まで時間をかけて足を運び、みる。そのことにも意味があるように思える。
スルメがなかなか飲み込めずにずっと口の中に在るように、展覧会が身体の中に残っている。



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高嶺格のクールジャパン
@水戸芸術館現代美術ギャラリー
2012年12月22日(土)→2013年2月17日(日)
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