地中美術館

●緊張感の考察●


切り取られる前の直島の空。 フレーム無しの空も見上げる人が増えたらいい。

安藤忠雄の建築の地中に埋もれた美術館。
外からはほとんどその姿が見えなくて、とか、作品が永久展示で、とか言われていますが。



ここに展示されているのは
・クロード・モネ《睡蓮》油絵4点
・ウォルター・デ・マリア《タイム/タイムレス/ノー・タイム》彫刻?インスタレーション?
・ジェームズ・タレル《アフラム、ペール・ブルー》光のインスタレーション
・ジェームズ・タレル《オープン・フィールド》体験型?光のインスタレーション
・ジェームズ・タレル《オープン・スカイ》空を切り取った空間
の5点。全てが安藤忠雄の設計の迷宮のような美術館の建物の中に、きちんと収められています。
そして、その《地中美術館》という建築自体も、ひとつの作品であるらしい。

この6つの作品を彷徨うように回っていると、モネの絵画が際立って素晴らしく見えました。
それはなぜか。

デ・マリアの作品も、タレルの作品も、作品が先なのか空間が先なのか、それとも同時進行なのか(たぶんこれだと思うけれど)はわかりませんが、展示空間=建築と作品が一体となって存在しています。空間がなければ作品として成り立たないものです。
例えば、デ・マリアの球体と壁との間隔、真鍮の彫刻の数、階段の高さ、段数、些細な音も思い切り響く空間。その展示室内の全ての要素をもってひとつの作品となっているように思えます。
二人の作家も安藤さんも同じ時代を生きているからこそ、それがすんなりできると思うのです。
話をすれば互いの考えがわかるし、何を表現したいのかも言葉をもって伝え合うことはできます。想像でしかないけれど、きっとそういったいくつかの共同作業、共通する時間があって、これらの作品が展示できているのだと思います。
しかし、デ・マリアの場合もタレルの場合も、あくまでも作家のインスタレーション的な作品としての空間であって、建築としての空間ではありません。

一方、モネの場合。
モネは100年以上前の作家です。どんなに話しかけても、モネの口からはどのような展示にしたいかは、聞くことができません。モネが考えていた展示空間として、オランジュリー美術館を再現する意味もありません。
地中美術館としてどういう空間に作品を展示するのか、モネに意見を聞くことはできません。だから、こちらからの矢印のみで、真っ直ぐに作品と向き合ったという凛とした緊張感に包まれた空間ができています。
採光、壁の色、床の素材、展示室の大きさ、入り口からのアプローチ、どれもモネからの直接の注文ではありません。しかし、それらの全てが睡蓮の絵を最高のクオリティで演出しています。建築にこれだけの演出力があるとは。今までみた睡蓮の中で一番美しい睡蓮がありました。これを守るためなら、面倒なスリッパへの履き替えも厭いません。

作品のための展示室として最高で最強だと思いました。
100年以上の時間の流れと今の瞬間が混在する空間は永遠の世界のようで、一人でこの空間に包まれると自分の意識も溶け込んでいくような感覚でした。
モネといえば睡蓮、皆が知る代表的なシリーズをどう扱うのか。無言な作品に対しての一方通行のパワーがはじけて、良い緊張感が生まれているのだと思うのです。
相互的で言葉のあるやりとりでは、こういう緊張感は出せないような気がします。

ちなみに、地中美術館の構想はモネの睡蓮を展示することから始まったそうなので、並々ならぬパワーを注いだのでしょうね。



地中美術館に行って思うことは、自分の身体で感じることの面白さです。全ての空間は作品だけでなく、自分の存在があって初めて完成するのだということに気付きます。
そういえば、福武さんも同じようなことを本の中で言っていました。

コンクリートの迷路を抜けて美術館を後にするとき、最後まで足音が響きます。建物を出た後も、壁を抜けるまで、後方で私の残像が歩いているのが聞こえてきます。美術館の中で足音を響かせるのはあまり良くないけれど、これはぜひ体験してもらいたい感覚です。とっても面白い。