内藤礼「地上はどんなところだったか」

空蓮房とギャラリー小柳での同時開催の内藤礼の展示。
空蓮房は予約制ですが、HPをみるとすでに予約は一杯のようです。


—まずは朝10時に予約した空蓮房へ。

直島のきんざや豊島美術館のように、このインスタレーションのために建てられたような空間。
玉砂利の通路をキシキシ音を立てて歩いてから、漆喰のやさしい白色が広がる部屋に入る。
角のない部屋は薄明かりが充満していて、まるで霧がかかっているよう。クリアなはずの視界が霞んでいるようにも感じる。何も見えない、ここにある部屋すらも見えない。
天国とはこんなところかもしれないと、ふと思った。

手探りをしながら、自身と部屋の存在を確かめながら、光が射している隣の部屋へすすむ。
そこにあるのは、小さな小さな人の形をしたオブジェ。
着物を纏っているようなシルエットで、ちょこんと部屋の隅に佇んでいる。

「地上はどんなところだったか」—この人は天上の人だろうか。

耳を澄ましていると、こどもたちの声、工事の音、車のエンジン...町の様々な音がきこえてくる。
来るときに小学校があったし、作業している人もみかけたし、この部屋は通りに面している。
でもここは真っ白な房の内。音には現実感がない。

人形をじっと見つめていると、次第にぼんやりと焦点が合わなくなり、視界から人形が消えた。
意識を手繰り寄せまばたきを数回すると、また人形が現れた。

床、壁、天井、全てが一体となった部屋の中。決して寒い天気ではなかったが、時折漆喰の向こうからひやっとした温度を感じる。
その度に身体から抜けかけていた魂が戻ってくるように、はっと正気に戻る。

終いには時間の感覚もなくなり、与えられた1時間が長くて短くて、永遠のようで一瞬のようだった。

今、ここで、自身の中にある様々な想いが走馬灯のようにめぐる。
次から次へと、取捨選択をするように。
そして残ったのは、ただ「私が在る」ということだった。
残しておきたい大切でかけがえのないものも、全ては私の内に在ること。それが全ての事実。
「地上は私が在ったところ」そんなこたえが浮かんできた。

あの空間にあったのは、人の形のオブジェとその気配だけ。
作品は物そのものというようりは、そこに生まれる感覚の全てであり、オブジェたちはそれを引き起こすための引き金にすぎない。そんな風にも思った。


—そしてギャラリー小柳。

さっきの人形がたくさん。まるで各々が誰かを想いの馳せに連れて行くという任務を終えて、詰め所に帰ってきたところのようだった。
人形は誰なのか。祖先なのか、未来の私なのか、天の使いか、何かの化身か。

色みが極限まで抑えられた絵画。もしくは、最小の一粒の色みだけを加えられた絵画。
限りなく白に近い青や赤や黄。知覚できる限度の色。

意識の平均台運動をしているような感覚になる。
それを象徴するような瓶いっぱいに張られた水。
内藤礼の作品には、表面張力のような力が働いている。
そう、いつも感じていた気持ち良さは、この表面張力なんだと思った。

軽くて空気をたっぷり含んだ小さな枕。やはりあの人は天上の人かもしれない。

どこまでも人の魂を信じている、強い優しさの気配が漂っていた。

最後、展示のDMを開いてみる。
浄化されてシンプルになった心身に、内藤さんのことばが沁み入ってきた。



以前、直島で、「一番好きなアーティストは誰か」と質問されたことがあって、その時は1人に絞れず何人か日本人の名前を挙げたけれど、島を離れて作品をみてみれば、それは内藤礼なんだと思います。

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内藤礼「地上はどんなところだったか」
@空蓮房
2012年10月17日(水)→12月7日(金)
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@ギャラリー小柳
2012年10月13日(土)→11月22日(木)
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